日本文化/放送内容要約

<JFNラジオ「FUTURES 落合陽一RADIO PIXIE DUST」> 今回はリスナーの方からのメールをもとに日本文化についてお話しします。

放送内容

今回も宅録。家でもできるだけ音質よく録れるようにしたい。

日本文化に興味を持ったきっかけは?――大学入学後メディアアーティストを志した時

そもそもはメディアアーティストになろうと思った時。電子技術や情報技術を使ってアートをやる時、メディアアートはどういうコンテクストで成り立っているかを考えた時、日本の存在は大きい(現代アートにおけるヨーロッパの存在も確かに大きいが)。例えば、90年代のメディアアーティスト・岩井俊夫の背景には、バブルや、SONY・パナソニックなどのオーディオビジュアルのたくさんのデバイスに囲まれた環境がある。諸外国のアーティスト――例えば、ステラークの展示が銀座の画廊で浮いていたりした。「日本、意外とあるなあ」と思って日本文化に興味を持った。

何が日本文化を日本足らしめているか?日本について考えないといけないと思っている理由の根底は、アーティストとしては、自分が育ってきた文化環境について、一定のテーゼやコンテクストの説明を持っていないといけないから。それを考えながら、アーティストとして日本文化をどう理解し、どう発信するのかを考えていたりはする。

ジョブズと禅の関係、カリフォルニアンイデオロギー。インターネット、コンピューター、メディアアート、デバイス、ヒューマンインタラクション、そういうカルチャーの中にジャパンの存在が大きく出てくる。「それって何なんだろう?」ということが幻影として常に彷徨っているから、日本の文化に興味を持ったのが大学の頃。大学に行くまではサブカルチャーが好きだった。サブカルから、日本って何だろうと気になり始めたこともあるかもしれない。

大学1年生以降に岩波文庫を読み始めた。なので、ハタチになるちょっと前から日本文化に関心を持ったんだと思う。自分のコンテクストがないと、アーティストとしての説明がつかない。「なぜ自分が物を作るのか」というところにある、自分の日本文化に対する自分としてのテーゼがあって、それを作らないとなと思っていたところがあった。

日本文化への理解をどう深めて行ったのか?――岩波文庫など

本を読んで学んだ。明治大正昭和の日本文化を輸出するような人たちの本を大学時代に結構読むうちに、日本文化に興味を持った。

<読んだ本の一例>
・鈴木大拙『日本的霊性』『禅と日本文化』
・一休の詩集
・本居宣長
・柳宗悦 民藝
・岡倉天心『茶の本』
・新渡戸稲造『武士道』
・山本七平『「空気」の研究』

特に影響を受けた思想は?

研究やアートは、精神修養かつ修行(=解脱するための手段)だと思っている。日本は、座禅を組む、深い山の滝に打たれるなどで精神修養を求めてきた(⇔ヨーロピアンアメリカンなヒッピーカルチャー)。我々の社会の中の「行為としての精神性」を考えると、アートも研究も、メディア装置を作ることも精神性が高いと思う。ニーチェで言う「超人に至る何か」が、日本のモノづくりの裏側にある思想として面白い。「無名の人が作っているがそれは霊性を発現している」――そんなことをずっと考えている中で、アートとアイテム(アイディア?)の関係性が面白いなと思って捉え直しているところがある。

発酵していく、テクノロジーと民藝の関係性を考えてみる、そういうことをずっと考えていく中で見えてきた「日本文化の正体」――その正体が見えるほど年は取ってはいないが――日本文化の正体の中にある、不文律によって成り立つがゆえに無名であって、それがゆえに逆に変えづらいものが根底に流れていて、空気によって成り立つ。良くない空気(穢れと褻)というのもあって、空気をカラにするのはなかなか大変。空間や境界を使いながら空気で規定されるものをどう入れ替えるか。その辺の空気感、不文律によって成り立っている、修行した個々人の連帯により理解を促す、とか。つまり、誰もが発ち返れるミッションステートメントやテーゼを考えないが、それが連帯によって成り立っていたりとか。テーゼに立ち返ろうと思ったら「そんなものない」と一休に言われたりだとか。そのあたりが日本文化が好きなところだ。それに対して精神性を高めながら修養を繰り返すのが、僕がいま求めている修行する形。

どんな日本、日本文化が生まれているか?――空気を受け継ぐ未規定性の美学

日本は「規定し切らない、未規定性の世界」じゃないか?例えば、緊急事態宣言を発令しても自粛要請であって超法規的措置を取ったり強制力を働かせたりはせず、成り立たせようとする世界。その美学は良いところ(余計なしつらえが出てこない、滑らかで主張が少ない)も悪いところもある。悪いところは、「それを変えようと思った時に、一体誰のどこを変えればいいか?」というと、全員の根本にある精神性を変えないといけないからよっぽどなカタストロフィー的な出来事が起こらない限り一気に変わらない。逆に変えようと思えば一気に変わったりもする。ある時期をきっかけにきっぱり文化が変わってしまう。だが、その受け継がれているものは、空気なのかもしれない、というところが面白い。「語らずとも表現する不文律。説明し切ってはいけないが、説明を省いてもいけないという微妙なニュアンス。」――そういう考え方や捉え方がアーティストとしての僕の中にある。サイクル(例:四季)の中で物を表現していく、生け花・枯れ木を使う、侘や寂は重要。

そうやって自然の中で磨かれた本質に迫る形のありかた、みたいなところ――「デジタルネイチャー」という自然というもののの根底には、仏教的なものとか老荘思想の上に乗っかる考え方があるのかなと思っている。そういった中で、思想の中で受け継いできた我々が持っている身体性とか、身体のあり方とか、思想の込め方とか、内と外の繋がりとか、内外の区別だとか、その中で表現を磨いていく中にアーティストそのものの精神修養性とか、精神性が含まれるのか、みたいな考え方はすごく面白いと思っている。禅だよね、とか達磨を使ってみたりだとか、そういった考え方がすごくある。

「自然物と人工物を区別しない」と言うところも千利休的な話だ。つまり、「人工物が育つ自然みたいなものがあった時に、人工物は自然物なのか考えた上でそれを借用する世界観」って言ったら、竹林から茶杓を切り出す世界と、電子の林(深圳や秋葉原)から切り出してきたオーディオ装置との間には違いがあるはずだが、今の世界にはそういう適応の仕方もあるんじゃないか?とか。デジタルまで含まれた新しい自然が目の前に提示された時に、どこを切り出せば自然で、どこを切り出さなければ不自然でっていう世界観はよく考えたりしている。

ウィズコロナで、各ローカルでデジタル発酵が起こり新しい付加価値が生まれ始めた

ウィズコロナで「ローカルに閉じたデジタル」の信ぴょう性が高まってきた。SXSWでも去年までは「各ローカルに閉じたデジタル発酵」って言ってると「なぜそんなグローバルでない話をしているんだ?」と言われた。だが、1年してデジタル発酵の世界になった。ウィルスにより我々は移動できなくなり、各デジタルでポリティクスとポリテックをやっていかなければならなくなった。その裏にはデジタル発酵した世界がある。その世界に必要なものは、「各ローカルが最大化した付加価値をデジタルの上でどう発表し、デジタルと身体を駆使しながら、その上で身体性が制限されてもデジタルで付加価値をどうやって提供していくか」という世界感。それはデジタルネイチャーの世界観に繋がっていく。つまりデジタルの上にある新しい自然と向かい合いながら、どうやってプロダクトを重ねていくのかがここから見える世界。ウィルスによる絶望に包まれているわけではない。もちろん人が動けない=GDPは下がる。だが、「人が動かないが付加価値が生まれる」は可能性の塊。つまり、どこでも感じられる新しい付加価値が生まれつつある。それが人間の個人の時代を拓いていく。そんな観点で今のデジタル社会を見ていくと、今まで我々の中になかったデジタルの息吹がデジタルネイチャーの中で生まれてくる

例えば、オンラインでイベント。ライブの仕方やファンとの付き合い方も変わってくる。展示の見方も変わる。手洗いが習慣づいているように、我々は意外とそつなくやるだろう。そつなくやる習慣をパッケージ化すると、世の中にインパクトがあるだろう。その中でやる茶室のような「ミニマルな表現」――茶室は密だが――茶室の中を無呼吸でマスク着けて通過する、みたいな世界観はあると思っていて、そんなことを考えていきたいなと思っているところ。

関連資料

侘や寂に代表されるように、我々の文化を形成し、通底する霊性としての禅を理解する入門としてこの新書は大きな意味を持つ。…(中略)…僕が計算機と自然の間に存在する美的感覚を近著の『デジタルネイチャー』で侘と寂で表現したのもこの新書からの多大な影響がある。

2020/10/01 B面の岩波新書 大拙を復習する/落合陽一 (書評)

ラジオfuturesを聴くには

無料のアプリ「AuDee」で約4か月(19~20回)分の放送がいつでも全国で視聴できます。ダウンロード方法はこちら。