自然と風景と計算機,あの夏のメディアアート(9分)/放送内容書き起こし

<落合陽一録 第2回> 自然と風景と計算機を見つめながら,落合陽一は何を考えているのか. 2016年の夏を振り返りながら,風景と計算機とメディアアートを考える. 遠い夏を追憶しながら未知を探求する第二回.

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KENPOKU芸術祭 公式アーカイブ・メディア露出

茨城県北芸術祭情報サイト#KENPOKU
2016/10/06 CINRA.NET ハッカソンにバイオ技術。ひと味違う芸術祭『KENPOKU ART』
2016/09/21 AllAbout NEWS KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭 の見どころは?

2020/05/27 【落合陽一公式】過去アーカイブ動画 県北芸術祭2016 落合陽一作品(04:02)

放送内容書き起こし

0:00 思い出深い2016年の茨城県北芸術祭

「県北芸術祭」っていう芸術祭があって、あれは何年前だったかな?約4年前ぐらい前だった(※2016/09/17~11/20)と思うんだけど。芸術祭でカバーっていうか表紙の作品、つまりポスターとかに上げられたりとか、ガイドブックの表紙になったりとか、そうやってメインテーマの作品に挙げられることが初めてだったので。あの時の芸術祭と言うのは、すごくよく覚えているんですよ。

自然に向き合いながら見えてくるものっていうものと、芸術として探求する、まあ「人とは何か?」とか「人間が今できるものって何だ?」「表現とは何か?」みたいなことを考えた時に、科学と芸術の接点としての芸術祭っていうものが当時多分思われてて、まあ自然と向き合う中に、何を知り何を見つけ何に興味を持つか、みたいなところの中に、まあ多分、農村的な風景とか自然の海の風景みたいなものがあった時に、風景の中にサイエンスを用いた作品。例えば、メディアを用いた作品でもいいんだけど、もっと人為的なものを用いた作品、ミディアムを使った作品みたいなのもあって。で、そういった芸術祭をやるっていうんで、まあ確かに面白そうだなと思って参加して。

初めてだったんですよね。山手線とかいわゆる都内の至るところに自分の作品のポスターが貼られるっていう経験が僕は当時無くて。自分の生活空間まで出てくることってあんまり無いから、それがすごく面白いなあと思ったんだよね。

2:00 展示会場の廃校選びー永遠に終わらない夏休み

その後、茨城県の県北地域、……あれはどこだったっけな?……宮中学校って山奥にあるんですけど。廃校になったばっかりの中学校で、展示をすることになったんですよ。人の営みがある瞬間があって、人の営みがあった場所から、人の営みが無くなってったところにある風景。そこに残っているものにメディアアートと向かい合せたら一体何があるんだろうな、と思った時、なんかね、他の廃校になった小学校・中学校に行ったら、なんかすごく幽霊的な感じがしたんですよね。ガラスとかが劣化してて、劣化したガラスから通じて出てくる光がすごく歪んで感じるような感覚ってやっぱ古いガラスだなって思ったり。人がいなくなってだいぶ長い時間経ったんだなあって思って。で、そうやって見る中にある、いわゆる風景って言うのが、人の営みからだいぶ時間がかかったものが多いなって、廃校見てて思って。

なんだけどね、そこの宮中学校だけはまだ人間の雰囲気が残ってたんですよ。永遠に夏休みが始まってしまって、永遠に夏休みが終わってくれない、みたいな。――そう、そんな感じの風景だったんだよ。これは僕の中でも面白いなと思ったんで、そこで展示することになったんですよね。

3:30 コロイドディスプレイー胡蝶の夢

コロイドディスプレイっていうしゃぼんの膜で作った――あれは僕の中で「鹿威し(ししおどし)」的で。行って帰ってくる薄膜のキラキラ感みたいなのが、すごく長閑(のどか)であって牧場(まきば)的ではあるけど、BRDF――双方向反射率分布関数みたいなのがあるんですけど、それとかを感じるちょっとCGっぽさもあり。で、それでいて、「胡蝶の夢」――蝶々が万物に変形する、変化する、トランスフォーメーションするみたいなのが、「物化する計算機自然」――まあ物化って、胡蝶の夢から取ってる言葉だけど――物化する計算機がキレイにハマっていて、まあこれはいいかなーと思って、持ってきたんだよね。

そしたらこの、自然の中に蝶々がいて、それでいて永遠に夏休みになった所で機械だけがずっと動いているみたいな、風景の中に溶け込んでいて、山並みがあって、山並みに光が浴びてて、浴びてる光の中に一瞬だけ蝶々が見えるみたいな、風景感がいいなと思って。それでそこにたくさんコロイドディスプレイ置いて、何か作っていくことにしたんだけど。

ちょっと人がいなくなって行った時のあの感傷的な風景の中に作品を置いていった時に、自然と人がいたはずの風景と、そこに残った情念と、そこにある原初的な驚きと、そのいくつかの間の中の対話があって、その対話の美しさは一体どこから来るんだろうな?ってことを考え始めたのが、多分あの時代。28歳ぐらいの頃かな、考えてて。

5:12 幽体の囁き

廃校なんで、校庭に使わなくなった机とかを並べていって、その中から教室の喧騒を再現する「幽体の囁き(※詳細、公式サイト)」っていう作品を作って、スピーカー自体は超指向性スピーカーで教室から校庭の机とか椅子とかを狙っているんだけど。

子どもが走り回る音だったり、鉛筆研ぐ音だったりとか、筆箱の上でカチャカチャやってる音だったりだとか、ざわめいている音みたいなのが聞こえてきて。でも、回り見渡してもスピーカーはないし、机の中からも音がしないし、ただ空気自体が音がしている。で、空気自体が音がしているっていうのは、すごい重要で。やっぱ空気感とか、BGMみたいな音とか、バックグラウンドノイズみたいな音がしてきた時に、やっぱ音に包まれている、でも包まれている音自体はそこにはない、っていう。そこでは感じられない音になっているのが、すごく僕の中では新鮮な体験で。これは「幽体の囁き」っていうタイトルを付けたんだけど、それが年がら年中、校庭からしているっていう気持ち良さがあるなと思って。

6:15 サイエンス・テックが見せる人間性はアートだ

「科学技術の発展とともに、人類ここまでできるんだぜ」っていうアーティスティックな側面を、原理的に証明するアート性みたいなもの。それをサイエンス・テックはアートとは違うという人は、おそらく少なくともちょっとは居るんだけど。でもサイエンス・テックが見せる人間性っていうものは、アートの文脈に載らないかと言えばそんなことは無くて。退廃され始めた風景の中に見える、退廃的な美意識みたいなものが、技術的なものと合わさった時に、どこか古典的な日本のこの……何だろうな……幽霊のような仄暗さというか、逆に言うと仄明るさなのかもしれないけれど、そんな風景が見えてきたっていうのが、僕の中では県北芸術祭の気持ちよかった体験で。そこからもう4年間の中にこのちょっと寂しい美学みたいなものが、自分の中に深く入っていってしまったんだよね。

夕暮れなり昼の教室で、誰も人が居なくて、そんな中で滴る液体見ながら直すんだよ、何人かのチームで。このコロイドディスプレイを。で、そうやって見てる中に、ここにいる自分って面白いなって思ったりとか、ここから見える風景ってスゲー感傷的だなって思ったりだとか。

県北芸術祭は僕の中ではすごく、思い出深い、堪らない芸術祭だったなって、今思うと。あの空間にずっと居られたんだよね、僕の中では。やっぱ山並み見て風景変わっていって、朝の光と昼の光は全然違う風景で。そんな中、人が居なくて。超音波が膜を揺らす音だけがしてて、超音波は耳に聴こえなくて、でも校庭からはざわめく音がしているあの感覚って、世界の端っこでそれを眺めていたいみたいなことが少なくともあって。たぶん誰かがわかってくれる人はきっと無くて、その中で見てたいって思う時があるから、やっぱりああいう作品を作るんだろうな、って思う……かな。