銀鏡の竹林の中で(17分)/放送内容書き起こし

<落合陽一録 第8回> 日本科学未来館の制作に寄せた思いを語りました

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放送内容書き起こし

0:00 ずっとアップデートし続ける常設展「計算機と自然」

日本科学未来館の展示かあ……。季節は感じたいと思ってたから、辻さんとずっとインスタレーション一緒に組んでて、季節ごとに展覧会のメインの「計算機と自然」のビジュアルが変わるように組み込んでいくんだけど。まぁそれはすごく大切なことで、季節を感じなくなるとやっぱ時間感覚無くなっちゃうし。季節を感じるために、その展示はずっとあるけれどその中で時間の感覚と季節の感覚を忘れないように、その作品を作っていくっていうのは非常に面白いなぁと思って。こういう展示には珍しいんだけど、まぁこれをずっとアップデートし続けるっていうのが展示プランに組み込まれてて。

1:38 落合氏・辻氏対談@日本科学未来館

辻:いつもあれですよね、極限にまで会話を減らして感覚でやるのがいいですよね。言葉でこの説明できないところに、インプロで物のクリエーション、クオリティを上げるから。

落:「ここ、ちょっと空いててほしいですよね」みたいな感じのコミュニケーションが毎回されてます。いつも非常に楽しみ。特に今回やっぱ植物のニオイがね。やっぱ触れないものが増えた分、ニオイがあるのはいいですよね。

辻:だんだん何か夏に向かってこう植物の力がばあっと上がる時に、ニオイが増してくるんで。

落:なんかやっぱ、下スッキリするといいですね。晴れやかな感じ。また6ヶ月後ぐらいに土台替えようと思ってます。

2:30 立ち位置と距離感を意識した

で、監修してる中に、やっぱり時間の変化、解像度が時代とともに変わっていくことを、どうやって例えば、10年の展示でそれを補っていくか。常設展だから、常設で作るってなると。今まで期間の展覧会は結構やったことあるし、作品は作ってきたけど。常設でかつ、すごいたくさん子どもたちとか世の中の人たちが見に来て。かつ、それが「僕」っていうことを感じる展覧会っていうよりは、計算機とかこの世の中にどういうことがあるんだろうっていうのを学んだりとか、あと社会を通じて体験したりみたいなことをやる機会というのは、初めてだったんで。それをね、かなり意識したところはあると思うんだよね。

だから計算機――よくテック側の人に僕、見えるんですけど。テックはもちろん使うし、逆にテックむっちゃ研究したりもするけど。まあ、アートやる時ってやっぱテックのことだけを考えているわけじゃないし。テックをどうやって使いこなすかってことも重要だし、テックを新しいのに見つける(?)ことも大切だし。ただそうやっていく中で、だからテックだけで語れないことももちろんたくさんあるし、テックを語らないで良い訳はないし。で、この間の距離っていうのはなかなか難しいところで。

だからそういうような作品という観点では、例えば楽焼があったり、ダルマがあったりとか。そういった複数のものが噛み合ってできている展示ではあるんだよね。だから、高柳式テレビの頃から、回って絵が見えるっていうことを見ながら、アナログのサンプリングとデジタルサンプリングどう違うかってのを比べてみたりとか。もちろんディープラーニングで顔を生成したり、自然が流転する様子を作ったりみたいなことはしてるんだけど。その上でじゃあ例えば風鈴のことを忘れたりとか、お茶のことを忘れたりしてはいけないし。「そういったものって何だろう?」ってだから考えて作って、やっぱ自然なことを大切にしている展覧会であることは間違いないと思うんだよね。

4:35 展示作品紹介

「計算機と自然、計算機の自然」。最初の入り口のところにある「まる、さんかく、しかく」か――この世界の全て、みたいな表現。あれはまぁ面白いし、あれは書家の紫舟さんに書いてもらったんだけど。そういうのをじゃあ光を吸収する塗料で作ったら、それは立体物だけど平面に見えるかなとか。じゃあそれって立体の感覚無くなるかなとか、その人間の視覚とか2次元とか3次元の形ってどうやって間の関係性あるんだろうみたいなところを作ったりとか。

そういう1個1個を見てってね。例えば、100人一首を取ろうとする畳が印刷でできてたりとか。例えば、おみくじと決定木って似てるよね、って考えてみたりとか。そういった当たり前なことなんだけど、普段僕は生活してたから当たり前のように感じること、おみくじが木に結ばれたら、これっていうのはある確率事象で決定木に物が結ばれたんだなぁって。「決定木は手法だけど、本当に木に確率事象を結びつけるなんて、何てロマンチックなやつなんだ」とか思っているわけですよ。あの感覚ってのを、じゃあどうやったら表現できるかな?みたいなことをずっと考えてるわけで。――まあその中で出てきてるものはやっぱり多いよね。

最適化計算して鳴る鉄琴が、なんかちょっと音が外れてずっと鳴っている様子とか、やっぱり空間の中ですごく――なんだろう――いいトーンではない、ただこの雑味が入ったトーンをあえて計算機でトーン生成しようとして出た雑味っていうのが、やっぱ絶妙で。計算機である音を出そうと頑張って、最適化計算した末に、その最適化から外れた音っていうのをしてて。それをね、これを追い切れるロマンと追い切れないロマンの間で、感じ入るものってあるじゃないですか。そういうのをこうじっとね、捉えると、やっぱ計算機好きだなぁって思ったりとかするよね。

ニューラルネットの話をするんだったら、神経細胞の末端って見たいじゃない?そういうのを見たりとか。じゃあ例えば、これだけ「リアル」「バーチャル」言ってたけど、本当にバーチャル、実質上って何だろう?って言って「ボールマトリックスミラー」っていってミラーに見えるようなやつを置いてみるとか。確かに触れないけど、そこには十分なライト技量(?)って言うか、光の実像がここにあって。それをこう見てると「じゃあ、実質と物質って何だろうか?」とか「ノミナル(nominal 名目の)とバーチャルってどう違うんだろう?」とか。「名目上と実質ってどう違うんだろう?」とか。そういったことを考えるように作っていったりとかしたんだよね。

7:13 デジタルネイチャー研の成果をどうやって見せるか?

で、まあ3年くらいやってたからさ……。すごく時間も長かったけど、その中でどうやったら古びていかないかとか、何を感じたらいいのかとか。あんまりインパクト勝負でもしょうがないし、割とじっとり、じっくり、丁寧に見たいなと思うところは丁寧に作りたいなと思って作ったし。もうそれでいて、そうだな……。

まぁ思い入れは多いよ、だって、デジタルネイチャー研を作ったのが5年前で、デジタルネイチャー研を作ってから2~3年後に「計算機と自然作ろう」って言われて、未来館で。じゃあそれは僕らが見てきたビジョンじゃないですか。つまり「計算機と自然」。で、自然の中にもデジタルはあるし、逆に自然の外――今はまだ自然と呼ばれてないような――計算機の中の自然にも自然はあるし。その両者がループして、人工物と自然物と混ざり合って、計算機の中の「質量のない自然」は「質量のある自然」と双方的にフィードバックループを重ねながら、新しい大きな自然を作りつつある。

それはそのビジョン自体はある瞬間も僕らのチームや、他の世界でもそんなに多くの人は――もちろん似たようなユビキタスとかの考え方はあってもユビキタスを超えて、じゃあ新しい自然を人が再発明するとか、じゃあ「新しい自然を再発明する中で、じゃあ自然って何だろう?」とか、ずっと考え続けてる人達っていうのは――そんなに多くはなくて。その新しい自然のことを、僕ら何十人かの学生と一緒にここ5年くらい考え続けてきた結果を、じゃあどうやって見せるのかって言った時。研究成果並べてもしょうがないし、逆に研究で分かったことを作って並べてもしょうがないし。それでいてアート並べてもしょうがないし、じゃあ何を漂白するのか?どういったメッセージを削ぎ落として、逆に表現に落とし込むのか?ってところは結構考えてたんですよね。

9:10 社会批評性を削ぎ落としたことで出てくる批評性

だって例えばそこに社会的なメッセージを込めてもしょうがないし、そういうところを語る場じゃ、ないじゃない?だけど「社会的メッセージを込めようと思ったら、いくらでも込められるけどそういう話でもない」っていう立ち位置の時に。じゃあその中で「批評性をあえて削ぎ落としたことによって出てくる、批評性って何だろう?」って考えちゃうじゃない?つまり、「普通だったらこういう批評性を持ってくるだろう?しかし、持ってこないよねー、この時」っていうあの感覚って、多分普通はやらないんだけど。ちょっとダダイズムみたいなんだよ。ただその感覚、分かってくれる人はきっと分かってんだろうな、と思って。「あえて喋んないんだ、これ、みたいな。だけど、物は並べたんだ。でもあえて言わないで、そっちには言わないんだね」と思うようなものがいっぱいある。パンチカードでDNA作ったりするし。じゃあそこでイルカが居るし。でもイルカを他のアクションには繋げたくないし。パンチカードとDNAの間の関係性はそれほど考えたくないじゃない?もちろん、それを考えればいくらでもダークな話が引っ張って来れるかもしれないけど。

でも、そういったことでじっくり考えてもらいたいということ自体が、何らかの欺瞞かもしれないし。そしたらじゃあ単純に「4進法って何だろう?」とか、じゃあ「ACGT(※塩基配列)って何進法で表現できるんだろう?」とか。じゃあ「DNAってどういうことだろう?」とか。じゃあ「DNAの折り紙って何だろう?」とか。DNA折り紙の論文が出たのが2006年かな?でもそれからまあ、15年くらい経っていろんな手法を使うようになって。それでいて、あえてDNAを折り紙で折るんだ、みたいな。じゃあ「計算機折り紙って何だろう?」とか「コンピューテーショナル折り紙のホールディングって何考えるんだろう?」とか。そういったことをずっと追い続けて出てきたやつを、掻い摘んでいるように見えて意外と包含しているっていうか。その間の関係性を見ながら、まあ考えて、考えて、考えて、作って。それでいて語り落としもあるんだが、あえて語り過ぎないように調整するっていうのが、すごく大変な作業だったような気がするんだよね。

11:18 問いを持ち帰ってもらうために、語り過ぎず体験に落とし込む

その中で言いたい事ってやっぱりこう、「問いをどうやって持ち帰ってもらうか?」と言うこと。問いについて語り過ぎてしまったら、問いが問いの意味を持たなくなるし。まあ、「自然や人間観や新しい自然についてもっと考えてほしい」っていうのはあるけど。その考えて欲しい内容っていうのを、語り過ぎてはならないけど。でも、考えを受け取れるぐらいの体験には落とし込まなければならない

じゃあ「解像度って何だろう?」とか、「機械学習、人工知能って一体何を今、オーディオ・ビジュアルの上で成り立たせているんだろう?」とか。じゃあ「映像とかイメージとか物質とかの間にある関係性って、アナログとデジタルでどういう違いがあるんだろう?」とか。じゃあそういったものって――「短歌って、YouTuberとどう違うんだろう?」とか。「日記文学とYouTuberは何が違うんだろう?」とか。じゃあ「イメージと物質、オリジナルって何?」「その間にあるバーチャルとリアルの関係って何?」「リアルとバーチャルって本当に対比関係なんだっけ?」「じゃあバーチャルとノミナルの違いは?」「名目上って言うけど、バーチャルとの違いは、じゃあ何?」「そう言って出てきたものに、一回性ってあるの?」「一回性があるものが、価値があるのかな?」「3Dリンターで作ったものって、何か意味あるんだっけ?」「それとオリジナルとどう違うんだっけ?」「重さも形も一緒だったら?」「でも材質は違うから、違うものが欲しいんだよね」。――そういったようなことをずっとこう考えながら、物を作ったりとか、当たり前に何か、故を解いて(?)いて。「その中で、社会的なメッセージを込める意味って何だっけ?」とか。「逆に、込めたら込める意味自体を失ってしまうんじゃない?」とか。

そういったメタメッセージを受け取ってもらえればいいなと思いながら、まぁ未来館のスタッフさんと何人かと、ずっと考えながら作ったんだよね。

それは逆に、色んな未来の子供たちがそれを見てくれたらいいなとか、四季折々の日本って感じてもらえたらいいなとか、日本を感じる中に、じゃあ今のこの社会の――例えば、つくば万博以降のヴェイパーウェイヴのこの世界観に接続した筑波のメディアアーティストがいて、それで違うメディアアーティストの系譜もいっぱいあって。じゃあ「メディアアートって一体なんだろう?」とか。じゃあ「そこにある、メディアートのout of the boxってどういう意味だろう?」とか。「”箱から出ること”って何だろう?」とか。「その中で、批評性って言ってたものって一体何だったんだろう?」とか。でも、批評性のあるメディアートっていうのは、本当にメディアアートの全てかって言われたら、その安寧な沼からどうやって出るか?って。昔、ある種の人とか(人名?)って言ってたよね。

そういった文脈を取りながらじゃあ、どこに社会の中で生きる方向性があるのか?メディアアートは壊れるし、メンテナンス考えないといけないし。メンテナンス考えなきゃいけない上で、じゃあどこに保存性がある場所があるんだろう?

13:52 サイエンスの中のアートを見出し、カルチャーの中で表現する

Science Museumは、アートのミュージアムじゃないって言われているけど。でもそれはそう言われるけど、でもそれはそうじゃないかもしれない。アートからアートの要素を漂白して、サイエンスと合流したところにアートが残る要素って何だろう?」ってまあ、考えてみるよね。だって「民芸や日常というのは、アートを考案してきた」と、俺は思ってるんだよ。でもそういったものって、じゃあ「サイエンスの中に感じられないの?」って言ったら感じられるような気がするし。そこに見られるものに、どの時代のどのアート性を見いだしていくかというのは、おそらく受け取り手(?)からここ10年の問題なんじゃないかなと思うんだよね。

14:33 銀の林の中にバラバラに散らばった茶室

でそれをだから、どうやってカルチャーの中で作っていくか。例えばじゃあ、それが茶室――あれは茶室を再構築して銀の林の中に持ってきたようなものだけど――つまり、銀の竹林があって、銀の竹林がある真ん中に茶室があって、しかし茶室がバラバラになってしまって、銀の竹林の中に入ってしまった。だから茶を点てる道具もあるし、畳もあるし、でその中に花もあれば、掛け軸だってある。しかしそれは、その形で保存されてない。日本家屋の中にあった「日本の物」っていうのが、バラバラの銀の竹林の中に収まってしまっていて。それが違う形を保っているっていうのが、特殊な竹林や茶室ではあるんだけど、その茶室の全体像っていうのはおそらく馴染んで行くと「見える」んだよね。

見えた茶室の全体像を見た時に、きっと子どもはたぶん何か感じるところがあって、先入観抜きでそれを受け取ったらそれは――こんないわゆる前提条件が、社会批評性が――メディアアートか?ミディウムって何?メディアって何?メディアコンシャスて何だろう?とか。そんなこと言わなくてもすんなり入ってくる奴はいると思うんだよね。でそういうところをどうやって次の世代に分かってもらうのかっていうのは、やっぱり考えたい重要な課題で。そこを考えたいから、今でもやってんだろうな、って思うところはあるし。

15:55 あの空間にいる時間そのものが重要

でもそうやって見てる中に、やっぱ計算機、自然、そして、Transformation of Material Things、End to End。そういったようなキーワードが散りばめられてて。なんだかね、音を聞きながら光を眺めてるだけで、ずいぶん居心地の良い空間を作りたいと思ったんだよね。現に僕、あの空間にいるとすごい安らぐんですよ。だからそういった、考えて考えて考え抜いた末にあえて考えないとか。考えて考えて考えられた末にあえて断片しか残さず語るのを止めるとか。そういったことを意識的に作ったものだから、そこにいる時間や空間、それそのものの方がそこで廻った考えを押し付けるより重要かなと思っていて。それはある種、達成されているのかな、と思うところは増えてきたよね。